願牛寺の全景図

 下の掛け軸は、当寺に伝わる江戸時代に作られた「願牛寺全景図」です。
再興された願牛寺の本堂・庫裏等を中心として、それを取りまく沼地や、周辺の村や寺(報恩寺、三月寺、東弘寺等)や、絹川(鬼怒川)などが三幅の掛け軸(一軸の大きさは縦180センチ、幅60センチ)にわたって描かれています。
周辺の沼地は、享保年間に新田開発により水田に変わったのですが、まだ変わった直後の当時の面影が残っている図としても貴重なものといわれています。

願牛寺全景図の掛け軸


親鸞聖人に関する数々の伝説

 この全景図には、寺の周囲に願牛寺にまつわる伝説に関連した旧跡や法物も描かれています。描かれている旧跡は、雁嶋、蓮枯沼、一心坊山、稲葉伊予守城址、法物は、牛木、御船(槙の彫り船)です。
 これらは、当寺に親鸞聖人がご滞在中のこととして伝わっている事柄に関連したものですが、以下に、これらの伝説や由来を紹介いたします。

左・中央・右の掛け軸


「雁嶋(がんじま)」の伝説

雁嶋の図 鎌倉時代、親鸞聖人が大高山に滞在されていた時、姥山(うばやま、現常総市古間木)に一人の老女がおりました。その老女は五人の夫に嫁しましたが、次々と死別し、さらに一人の猟師にも嫁ぎましたが、不幸なことにまた別れることになりました。
 老女は、「女人は障りが多く、成仏することはできないという。まして自分は常に猟師として殺生をなりわいとしてきたし、夫とも死に別れるなど罪業深きもの」と嘆き、願牛寺に参り、親鸞聖人にお会いし、自らの悲しみを訴えました。

 親鸞聖人は「阿弥陀如来の本願は、たとえどのように罪深いものであっても、自分が罪深いということに気がついたものを救おうという誓いである。どのように罪深いものであっても、そのことに気づいたものの往生は疑いがない。罪も報いも阿弥陀如来にお任せすれば、お救いくださるのだから、感謝の気持ちで、ただただ念仏を称えなさい」と老女に説かれました。すると、それまでの不安と悲しみで一杯であった老女の心がすっかりと晴れ、たちまち信心を得る身となりました。

現在の雁嶋 老女はその嬉しさのあまり、どのように親鸞聖人にお礼をしたらよいかと考えましたが、貧しさのゆえにままならず、以前猟師の夫が猟のときに使ったおとりの雁のつがいを親鸞聖人に献上しました。
 親鸞聖人は、老女の志の深いことを感じられ、槇の彫り船に乗られて沼中に出られ、つがいの雁の足に「嶋」という字を書き添えて、「私が皆に勧めている阿弥陀如来の本願がますます広まるようであれば、この沼に嶋が生ぜよ、雁もこれからもこの嶋にきてやすめ」といわれ、雁を放たれました。すると雁が沼の水面に着水した途端に不思議なことに、沼から嶋が浮き上がり、雁がこれに泊まって羽をやすめました。親鸞聖人はこの不思議な出来事を喜ばれ、浮き上がってきた嶋を「雁嶋」と名付けられました。 

雁嶋の石碑この嶋は、「毎年春秋の彼岸の頃、沼に浮き上がり、雁がその嶋に泊まり、雁が立ち去るとこの嶋も消えて見えないようになる」という嶋であったので、「不思議な嶋」として有名になり、関東随一のご旧跡といわれるようになりました。
この雁嶋は現在も願牛寺から北西にくだった水田のなかに残っています。
人工的に周囲を掘削した池のなかに、江戸時代から残っている石碑を安置した小さな嶋があります。池には、葦が生い茂り、ここだけがかつての沼の面影を残しています。
石碑には、正面に「高祖聖人 関東最初雁嶋御旧蹟」、側面に「寛政元己酉年二月十八日」と彫られています。

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「牛木(ウシボック)」の伝説

 大高山に寺を建設しようとしたときの話です。大高山は、いまでも木々の鬱蒼とした小高い丘ですが、斜面が急であるため、当時の人々は人力で資材を運び上げるのに、とても苦労をしました。そのような時に、どこからともなく一頭の牛があらわれたのです。
その牛は、自らの背に寺用の材木をことごとく載せて運び上げ、寺が建立を見届けると、牛は沼にはいって姿を消してしまいました。その姿を消してしまった沼のなかから、ほどなく「牛の形をした枯れ木」があらわれました。
親鸞聖人は、その木を「牛木(ウシボック)」と名づけられ、皆にそのように呼ばせたとあります。

牛木の図 その牛木は、全景図の真ん中の掛け軸の中段あたりに描かれていますが、沼の中に描かれている理由は、牛木が長い期間、実際に沼のなかに置かれていたためと思われます。
そのことは、江戸時代の享和3年(1803年)に出版された親鸞聖人の高弟達の開いた寺々等を紹介した『二十四輩順拝図會(にじゅうよはいじゅんぱいずえ)』(了貞編、竹原春泉斎画)にも、一枚の絵として紹介されていることでも推察できます(左上図)。この絵では、沼地のなかの牛木が描かれており、牛木がどのようなものであったかを窺うことができます。この絵で左側中段の位置に、人々が遠巻きに眺めたり拝んだりしているのが、牛木です。確かに牛が寝ているような形をしているのがご覧いただけると思います。この牛木が沼のなかにあった場所も「牛木」(ウシボック)と言う地名で残りました。
この牛木は、その後、沼から引き揚げられ、本堂に安置してありましたが、明治の二度目の本堂焼失の際に、一緒に焼失してしまいました。

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「蓮糸の尊像」の伝説

蓮糸の阿弥陀尊像「蓮糸の尊像」は、現在にも伝わる「親鸞聖人ご真筆」といわれる阿弥陀如来が真向きに立たれているご絵像(掛け軸)です。このご絵像については、次のような話が伝わっております。
親鸞聖人は、建立なった願牛寺にご本尊を安置しようと考えられて、大高山前の沼に御船(槙の彫り船)を出し、自ら沼のなかの蓮を折り取り、この蓮の糸をもって一心坊の妻女に生地を織らせました。
出来上がったこの蓮糸の生地に、聖人みずから金泥(金粉とにかわを溶かしたもの)をもって阿弥陀如来の尊像をお描きになり、末代の人々への形見として一心坊にお与えになりました。

 この蓮糸の尊像に関しては、更に次のような二つの伝承も残っています。

■「誠ノ如来(まことのにょらい)」の伝承
 元弘元年十二月(1331年)、本願寺三代宗主覚如上人は御年62歳の時に、関東ご巡教になられ、願牛寺にも暫くご逗留されました。その時、親鸞聖人が描かれた「蓮糸の尊像」を覚如上人がご覧になりました。
覚如上人は、絵師にこの「蓮糸の尊像」を真似て描かせ、画かれた尊像を在家用の阿弥陀尊像の手本として免許されたと寺伝で伝わっております。
すなわち、現在の浄土真宗の仏壇等にご本尊として安置されているご絵像の阿弥陀尊像(絵像)の原型となったのが、この「蓮糸の尊像」であるといわれているのです。
このように本願寺のご門徒への手本の尊像となったことから、「蓮糸の尊像」のことを、別名「誠ノ如来」(まことのにょらい)ともいわれました。

■火事でも「蓮糸の尊像」が無事だった伝承
 願牛寺はその後、八代目まで一心坊の子孫が継承しておりましたが、天正5年(1577年)二月二十三日、地元の豪族、渡辺周防守と多賀谷氏との古間木城をめぐる戦乱による兵火により、親鸞聖人ご建立の御堂・宝物は焼失してしまいます。

 その火事の時のことです。
この蓮糸の尊像は、不思議なことに焼け落ちる御堂の火の中から火の粉とともに飛び出して、5〜6町も離れたはるかな樹の梢にひらひらと掛かり無事だったというのです。
 御堂が全焼するという事態のなかでも、ご本尊である尊像が火事でも焼けず無事であったことから、当時の人々は、親鸞聖人に再びお目にかかったようにありがたく感じ、この尊像をあらためて大切に思ったと伝えられています。
この不思議な出来事により、願牛寺は「東国一の霊場」であるとも、いわれるようになりました。

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蓮枯沼(ハスガラ)

 親鸞聖人は、「蓮糸の尊像」を作るために、みずから沼に出られ、御船に乗り蓮を刈り取り、糸を一心坊の妻女に紡がせました。
その後、親鸞聖人が蓮を刈り取られた沼地からは、蓮が一本も生えなくなったので「蓮が枯れた沼」と言われるようになったそうです。そこで、この沼地を人々は「蓮枯沼」と書いて、「ハスガラ」と呼びました。
この場所は、願牛寺の参道を下った南方500メートル位にあり、今でもハスガラの地名は伝わっています。

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御船(槙の彫り船)

 親鸞聖人が、沼上に出られる際に使われたという船で、当寺の伝説では、雁嶋の伝説と蓮枯沼の伝説に登場します。
この御船は、明治に二度目の本堂焼失の際に共に焼失するまで残っておりました。
江戸時代に、この船の実寸を記した資料では、長さ三間(4.8メートル)、横二尺八寸(84センチ)の槙の木をくりぬいた船であったということが記録されています。

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一心坊山

 一心坊(一心房)という法名をいただいた稲葉伊予守勝重の庵があったといわれるところをいいます。当寺から北へ1.5キロくらいのところの場所ですが、現在は、山林となっており、何も当時の様子を示すものはありません。

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稲葉伊予守城址

 伝承で親鸞聖人に帰依した稲葉伊予守勝重の城があったといわれているところです。別の記録では、稲葉伊予守勝重は、古間木城主の渡辺周防守の依頼により、古間木に滞在したといわれており、渡辺周防守との関係があったことが窺われます。
掛け軸の絵のように、稲葉伊予守城址といえるか不明ですが、城跡は寺から1キロほど南方にあり、現在は古間木城址としての記念碑が建っています。

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